「ガイジン」とは

インバウンド対応

「ガイジン」と自称する人々の本意は

外国から日本を訪れる人々や日本で暮らす人々の中には、自分たちをわざと「ガイジン」と呼ぶ人がいます。

自分たちが「ガイジン」という言い方を喜んで使っているのだから、私たちだってそう呼んでも問題ないのではないか?そんなふうに思ってしまう人が出てくるかもしれません。

ピンとこないかもしれないので、わかりやすい例を紹介します。

風刺ニュースで知られるThe Rising Wasabi(廃刊)ではコロナ禍にこんなニュースを発しました。

Gaijin Maintains Safe Distance On Train By Being Gaijin

A foreigner residing in Tokyo has had a safe train journey this morning with fellow commuters continuing to practice customary gaijin distancing rules.

“Everyone kept at least 1.5 meters away from me,” says 25-years-a-gaijin Bill Kruiser.

“Gaijin distancing finally has its benefits.”

The Rising Wasabi

[それっぽく和訳]
ガイジンが電車内でソーシャルディスタンスを確保

東京在住の外国人が〇日朝、他の通勤客がガイジン・ディスタンスを守る中、安全に通勤を果たした。
「皆、僕から1.5メートル以上離れてくれたんです」と話すのは外人歴25年のビル・クルーザーさん。
「ガイジン・ディスタンスがついに効果を発揮しました」

差別を逆手に

自虐的に使うケースや冗談交じりで言うケースもありますが、ほとんどが「外人」と言う表現に伴うネガティブなニュアンスをのせています。The Rising Wasabiの記事では、電車で隣に誰も座ってくれず、距離を置かれがちな外国人の嘆きと怒りが背景にあります。

このように、悪意が感じられる表現を逆手にとって、自分たちを同じ言葉で呼ぶ現象をreappropriationといいます。

reappropriationとは

reappropriationは「転用」という意味があり、自分たちを蔑視したり抑圧したりするような形で以前使われていた言葉を、皮肉をこめた別の目的で使うプロセスです。

その狙いは、
・差別的表現や中傷の否定的性質を逆転させること
・軽蔑的な作用を中和すること
・抵抗の形として差別的表現の汚名を利用すること
にあります。

reappropriationの例

reappropriationは他にも人種や階級に基づく例がたくさんあり、デリケートな内容に及ぶため、ここでは紹介しませんが、主なものをいくつか取り上げます。

Queer(クィア)
LGBT+コミュニティが自分たちをクィアと呼ぶ現象。クィアは「風変わりな」という意味があり、もともとストレート以外を認めていなかった時代にLGBT+を蔑視する表現として使われていました。

Redneck(レッドネック)
アメリカの山間部や農村部に住む、保守的な貧困白人層を指す言葉で、野外で働く白人の首が赤く日焼けすることに由来しています。肉体労働者が多く、教育水準が低く、人種差別的な傾向が強いというステレオタイプがあり、元々は侮辱的な意味で使われていましたが、近年では自分たちのライフスタイルや文化を誇りに思う人も多く、コメディや音楽などで自虐的にも表現されています。

Crip(クリップ)
もともとは障害者、特に車椅子を使用する人々を嘲笑するために使用された表現ですが、現在では一部の障害者活動家や学者が健常者主義的な規範やステレオタイプに異議を唱えるために使用しています。

reappropriationの注意点

込み入った話になりましたが、reappropriationには注意点がいくつかあります。

  • 当事者は自らに対する差別的表現を使うことができるけれど、当事者以外が使うと、単なる差別的表現になってしまいます。
  • 当事者同士でもその表現によって傷つく人、攻撃されたと感じる人もいます。
  • 場面によっては不適切になることがあります。
  • 仲間内だけでしか通用せず、見知らぬ人や権力者の間では受け入れられないことがあります。

私たちが普段口にしてしまう自虐や、いじりの問題にも通じるので、共感できる点が多いかと思います。

まとめ

reappropriationは単純明快ではありません。
感受性と自覚を大いに問われます。

外国人が自分たちを「ガイジン」と呼ぶ現象も同じ発想です。

こうした言葉に隠れた社会の問題や当事者の気持ちに思いをはせることが大事であり、単なる言葉遣いの違いだけではなく、多様性のあり方を考えるきっかけになれば幸いです。